ただ今戻って参りました。
結論から言うと、伯母は、とりあえずは大丈夫そうです。
伯母が倒れたのは24日午後のこと。
かかりつけではない病院に搬送され、そこから実家に連絡が来ました。
連絡を受け、翌25日の朝3時半に高槻を出発。中国道で岡山県津山市の実家に行き、母を乗せ、国道53号線を南下、岡山に。山陽自動車道の手前で弟を乗せ、九州に向かいました。山口までは風が強く、小雪の舞う天気でした。
福岡県の最南端のインターチェンジ南関で降り、まずは病院へ。
病院では、集中治療室に伯母は横たわり、口から気管挿入で呼吸を。肺をやられているらしく、自力での呼吸が困難とのこと。しかし意識はあり、問いかけに涙を浮かべてうなずくことができました。
伯母は79歳。ずっと独身。大阪十三あたりにもいたそうですが、三池炭坑が繁盛していた頃に大牟田に移り、そのまま引退。現在に至るようです。私も数回しか会ったことがないのですが、それでも伯母は私のことも気にかけてくれていました。
母と伯母は、会えばお互いに文句ばかり言い合っていますが、幼くして両親と姉を失った二人にとって唯一の姉妹。
病院の後、伯母のアパートにナビを頼りに行きました。数十メートル先が熊本県という場所で、昔は栄えたであろう街角の小さなおんぼろアパートでした。鍵が無く、隣近所の人に尋ね、近くの公民館長宅を訪ね、民生委員さんに連絡をとっていただきました。
何か手がかりがないかとアパートの周囲を回ると、台所窓の鍵が開いていたので、館長さんほか立ち会いのもと弟が入り、中から鍵を開けました。
室内を調べ、伯母の親しかった友人や在宅介護のヘルパーステーションに関するメモなどを発見、そこに連絡をとり、何とか方向性が見いだせました。
病院の入院手続きをして、入院セットの購入もしました。最悪の場合の救急措置についての同意書にも署名しました。私の母も呆けが始まっているので、長男である私のサインで。
その夜は弁当を買って三人でアパートに泊まりました。
寒い夜でした。
翌日、市役所へ。大牟田の市役所は、栄えた頃の古いレトロな庁舎でした。保護課というところへ行きましたが、これまた昭和の事務所。映画のロケにでも使えそうでした。三池炭坑のおかげだったんでしょうね。
この課のデスクには、何十人もの質素な制服?の中高年の担当者の方々がびっしりと座ってなにやら忙しそうでした。ヘルパーステーションで聞いた担当の人を呼んでいただき、かくかくしかじかと事情を説明し、書類をいただきました。それを病院へ持っていき提出。一通りの手続きを終えました。
この日の午後には管も取れて話せるようになるというので、いったんアパートに戻り片づけ、再び病院へ。1時頃には予定通り管がはずせ、苦しそうな呼吸でしたが、少し話すことができました。入院は約1ヶ月。
なんとか大丈夫でしょう。
「また来るからね。」と何度も念を押して病院を出ました。
大牟田から岡山、津山を経て、先ほど帰還。
慌ただしい二日間でした。
恥ずかしい話ですが、老人介護とか、保険とか、そういったことに全く無縁無知であった私は、今回いろいろと考えさせられました。
あちらでは、近所の人やいろいろな方々の優しさにふれることができました。ありがたいことでした。私も自分の無知を説明し、全くの素人にわかるように説明を求め、丁寧に対応していただき、勉強になりました。
さて、疲れたので、眠ります。
お気遣いくださったみなさま、ありがとうございました。