以下、先月の記事です。今頃になってのアップです。
2012年05月25日21:32
久々の日記エントリーですが、読んでいただいても心温まるものではありませんな。
ここのところ激務が続き、毎日休憩時間無しの13~14時間労働が続いています。まぁ、今の役割場仕方がないのですが、なかなかポジティブになれないのが残念です。
そんな中、先週の金曜日昼に、福岡は大牟田の病院から電話。
伯母は以前にも書いたとおり、昨年12月24日に倒れ、病院生活が続いていました。3月にはかなり回復し、4月頭にはリハビリ系の病院に移っていました。その病院から、容態が急変しつつあるという旨の電話でした。
その電話が二度三度かかってきたので、私も職場を脱出し、急ぎ帰宅。
荷物を詰め込み、キャッシュを用意して電車に飛び乗ったのでした。
博多から九州新幹線に乗り換え、新大牟田に着く直前に再び電話。
延命処置についてでした。
新大牟田にツバメ号が着いたのが午後8:53。
タクシーに乗って病院へ。
間に合いませんでした。
着いた時には、整理が始まっていました。
死亡時刻は、最終電話があった直後の午後8:46だったかな。
手を握り、額に手を当て、
「おばちゃん、間に合わなかった。ごめん。」
まだ温かい体温の残った伯母は、安らかに目を閉じていました。
即、入院荷物が袋詰めされ、病院の退去手続き。
看護師が葬儀屋リストを見せてくれ、その中から家に近いものを選び電話。30分後には軽自動車で迎えに来てくれました。
生活保護を受けている旨を伝え、その範囲内での葬儀を申し出ました。
葬儀屋の2階、30畳近い和室に安置されました。そこは通夜用に宿泊設備もありました。
担当者と打ち合わせました。翌日が通夜。日曜が告別式。とても信頼の置ける親切親身な担当者さんでした。各方面に連絡。伯母とその夜を二人で過ごしました。
伯母は、昨年の9月に創価学会に入信していました。
伯母の友達に連絡したところ、友人葬をさせてもらいたい旨を話を受け、快諾。費用は発生しないとのこと。
翌日、レンタカーを借り、伯母のアパートに行き、近所に伯母の逝去を伝え、少し片付けをしました。
通夜。地元の創価学会の導師も来て、その方式での通夜。
翌日午前10時より葬儀。
最後にお棺に花束と、昨日家から持ってきた私や母、弟の手紙を添え、最後に叔母が好きだったメロンパンも入れ、話しかけました。
「おばちゃん、ごめんな。俺一人で来たけど、ごめんな。」
この時、初めて涙が出ました。
いい人たちに囲まれての晩年でした。参列者は20名ほどでしたが、本当にいい人たちでした。
そのあと、斎場に。
葬儀屋の略式霊柩車と私のレンタカーのみ。
大牟田動物園の裏手にある斎場は、緑に囲まれた大きな施設でした。
係員のほかに人もいなくて、その日ある5件のうちの1件目でした。
火葬許可書で確認し、遺体が炉の中に入れられ、係員の促すままに、私が点火の青色ボタンを押しました。
待合室で独り、急遽作っていただいた遺影を眺めながら待ちました。
細めの伯母は、予定より早く焼けました。
お骨をツボに納めました。左股関節の人工関節が残っていました。
町を離れる前に、三池港に立ち寄り、伯母に大牟田の海を、見てもらいました。ちょうど干潮時で、入江の奥では潮干狩りの家族連れが遠くに見えました。

その足でレンタカーを返し、新幹線に乗って、お骨、遺影と大阪に戻りました。
伯母は重松幸子。
台湾生まれの80歳。
本籍は岡山県の久米郡久米町(現津山市)。
作家の重松清さんは、実家の隣で本家筋。今は空き家です。
伯母も若い頃に家を出ているので、お骨を重松家が引き受けてくださるかが目下の課題。
今は私の家で伯母に休んでもらっています。
伯母の80年の人生を、そして、自分のルーツをも振り返った三日間でした。
今週火曜からは弟夫婦に家の後始末や役所関係の手続きのために行ってもらいました。そちらも昨夜無事に終わったとの報告を受けました。
おばちゃん、ごめんな。